ぼん3号の小さく大きな日常の出来事日記 -114ページ目
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ぼん3号のほんとの姿


どうも皆様こんにちは、ぼん3号です。

スイッチをポチっとしてきていただいたのかな?

どうもありがとうございますm(_ _)m





でもこの記事は私の本当の姿を書く

すごーく暗い内容です
ヽ(;´Д`)ノ




いつもの汚ネタのような記事をご希望のようでしたら

どうぞご遠慮くださいませ












で、さっそくですが

私は記事でよく教訓めいたことをいっちょ前に書いたりしてますが

どれも自分の実際の経験からくるもので

かなりくだらない事もつらつらと書いちゃったりしてます。



色々と書いてきました教訓ですが

どんな教訓よりももっとも強く皆さんに言いたいのに

まだ書いてない事があります。







それは


親孝行はできるうちに必ずしましょう


ということです。


そこから私の本当の姿を書いていきたいと思います。










私の記事には私の仕事の話が出てきません。

なぜかというと簡単な事です。







今、私は仕事をしていないからです。







別に結婚してるわけではないのに仕事をしていないのです。

仕事する事がすごく好きなのに仕事をしていないのです。

以前は某有名な会社の系列会社に勤めていた私です。

気がつけばかなりのベテランになっていて

会社のみんなと仲良く、そしてとてもいい環境で

働かせていただいていました。

それにその仕事場で今の彼とも知り合う事ができました。






それなのにどうして辞めたか?

それはある事がきっかけでした。






私の記事をよくみてくださってる方なら分かると思いますが、

私の記事には父親がよくでてきます。

しかし母親は一回しか出てきたことありません。

しかもすごく昔の話を書いた記事で。

それはなぜか・・・・







私の母親は2003年5月19日にこの世から去り

もうこの世にはいないからなのです。






五月が私にとって特別な月と以前書きました がこれがあるからなんです。



母親の代わりに私が家事全般を行なうために私は仕事を辞めました。

そのために今は仕事をしていないのです。

(ついでに今資格を取ろうとしているのは今後仕事を始めるときの為だったりするのです)









私の母親はとても働き、そして色々と気が利く人で

家族からはもちろん、親戚やご近所の方からも大変信頼されていました。

私や父親もそんな母親にすっかり甘えた毎日を過ごしていました。






そんな毎日がある日突然壊れてしまいました。






2002年の初め頃、母親の体調に異変が起きていました。

いや以前から本人は気がついていたと思います。

昔から太っていた母親でしたが

その頃の母親はすっかり痩せてしまっていたのです。

それをダイエットできたと嬉しそうに話す母親。

尋常じゃない痩せ方に私や親戚からは病院へ行くことを強く勧めたのです。

しかし昔から病院が苦手な母親はそれをこばんでいました。





そのころの母親は大変食欲や体力が落ちていました。

体調もとても辛くなったようで、ついに我慢できなくなったのか

やっと病院へ行くことを決意してくれました。





その日は平日なので私も父親も仕事に出て

いつもどおりに過ごしていました。

そして夕方の四時過ぎだったでしょうか、

私の携帯電話に電話がかかりました。

出ると親戚のおばさんからでした。



   「お母さんが入院することになったのよ」



かなり驚きました。

確かに痩せてはいたもののまさかあの元気な母親が入院だなんて・・。



   「お父さんにも電話したから急いで病院へ行って」



私は上司に頼み早退させてもらうことに。

父親と連絡をとり、家でおちあい

おばさんから頼まれた荷物を持って車で病院へ。

病室につくといつもと変わらない姿の母親がそこにいました。

なんでも二日にわたって行なう検査の一日目、

胃カメラの検査で他の人よりも長い時間行なうので

ちょっと不安に思ったようです。

そして検査のために一部胃の粘膜を採取したそうです。

その後家に帰ってから出血したようなのです。

とまらない血に不安になり病院に連絡をしたら

すぐに入院をしてほしいといわれたとのことでした。








色々話をして必要なものを聞いたりして気がつくと

面会時間が終わる頃になっていました。

その日はそれで帰ることにして病室を出ると

看護婦さんに声をかけられました。

なんでも今度詳しく病状を説明をしたいから

時間をつくってほしいという事でした。



とても嫌な予感がしました。



親戚のおばさんの話だとこういう時はできるだけ大勢で行くと

病院側に対してプレッシャーをあたえられるとのことなので

母親の姉夫婦や父親の姉など

できるだけ人数を集めて話を聞くことにしました。







そして当日、母親にはみんなが来ていることはもちろん内緒で

ばれないように病室近くの個室へ案内されました。

そして先生からの説明が始まりました。





母親の病気は胃ガンだそうです。





しかもかなり進行しているとのことです。

先生曰く



   「どうしてここまでほっておいたのか?」



というほどでかなりひどかったようです。

そして母親の場合はスキルス性のもので

ポコっとできるのではなく臓器のなかの細胞にできるというもので

手術しづらく、とてもたちの悪いものだそうです。

亡くなられたアナウンサーの逸見さんと同じタイプのガンだそうです。

そして母親はまだその当時50代ということで若く進行が早いとの事。



余命一年と宣告されてしまいました。



人の人生を終わる時を聞いたのは始めてです。

しかもまさかそれが自分の母親だなんて・・・・。

本当に信じられませんでした。

そして先生から本人に伝えるかどうか問われました。

感のいい母親の事だから多分自分の体の事だし分かっていると思うし

それに自分で理解しているほうが治療に専念できる、

それにしっかりしている母親だからきっとその事実を受け止められると思う。


ということで本人には伝えてくださいといいました。

もちろん余命の事は伝えず、病名、病状だけを伝えてもらいました。

それを聞いた母親はあっけらかんとしていました。




   「ガンなんだってぇ」




まるで人事のような母親。

でも本人がそんな感じだと逆に回りとしてはとても辛かったです。









治療の流れとしては体力をつけて手術をするとのこと。

そしてもし開腹して進行が治療のほどこしようのないほどになっていたら

すぐに閉じ、なにもしないで終わるとのことです。

そのため当日は大変時間が気になりました。











9時に手術室へ向かい。手術スタート。

あとはただひたすら時計を見ていました。

時は過ぎ12時を超えたところでとりあえずは行なわれていると一安心、

あとは無事に終わることを待ちました。

結局手術が終わったのは6時を回っていました。











しばらくして近親者のみ先生から説明を受けるとのことで

集中治療室へ行きました。

そこにはまた麻酔がきいていてモウロウとしている母親がいました。

とりあえず無事に終わったようで一安心しました。











そして先生からの説明が。

手術後の説明を受けるという経験が始めてだったので

一般的にどういうことをしているのか知りませんが

手術で実際取った患部を見せられました。

胃、胆嚢、脾臓などはじめて本物の人間の臓器を見てしまいました。

胃は全摘でガン細胞のせいで通常よりも

倍以上の大きさになっていました。

無事に終わって安心していたところでしたが

先生の説明によると 取れるところは 全部取れたとの事、

しかしガン細胞が腹膜にまで達していたそうで

もうそこまでは手のほどこしようがなかったようです。











そして術後しばらくして退院が許されました。

しかしこれで終わりというわけではもちろんなく、抗ガン剤を毎日飲み

病院へ毎週通いながら治療をしていくことに。










しかし以前のような生活はできませんでした。

まずは直射日光をさけないといけないとのこと、

日に当たるとそこに皮膚ガンが発生してしまうのだそうです。

それに胃が無い為、今までのようには食事を取れません。

そして体力もずいぶん落ちてしまっていました。

そのため私は会社帰りに買い物をしたり

休みに掃除や洗濯をしたりとできるだけ協力できることはしました。













そして月日はたち年末、

またどうも調子が悪いとのことで病院で検査をしてもらうことに。





その結果なんと卵巣にガンがあるとのこと。





そのため二度目の手術を行なう事に・・。

検査の結果では片方の卵巣だけ取るとの事でしたが

実際開けてみると両方ともガンにおかされているということで結局両方とることに。














その後退院しましたがやはり体調はおもわしくなく

再び入院することに・・・。

もうその頃は体調はとてもおもわしくなく

臓器がガンにおかされ、食べ物を食べても消化できずに戻してしまう始末。

しまいには下まで降りずに口から臭いものを戻してしまう母親。

口の中が臭くて臭くてたまらないんですよ。

それが毎日毎日・・・。

口をゆずいでもゆすいでもそれが続く毎日。

何もしてあげられないのがとても悔しくって悔しくって。

それにその入院の前に母親が

お見舞いにきてくれたおばさんに対して言った一言。





   「もう死にたい、ここ(家)で最期を迎えたい」





それを思うととても辛くて辛くてたまらなかったです。











会社を半休や途中からは休みをもらい、私は毎日病院へ通っていました。

そんな中、ゴールデンウィークのある日、

毎日の看病生活や仕事の事など思い深く悩んだ私に対して

母親が息抜きをしなさいといってくれました。

しかしそんな辛い思いをしている母親をおいて

のんきに遊びにいくなんて私にはできません。

しかしそれに対して母親が




   「あさりのお味噌汁が飲みたい、潮干狩りにいってきて」




といってくれました。

気が引けましたがどうしてもと頼まれ、しぶしぶ行くことに。

彼と千葉の某潮干狩り場へ行きました。

幼い頃以来の潮干狩りだったので

どういうものかすっかり忘れてましたが

久々のデート、外出だったのでとても楽しい時間を過ごすことができました。















次の日彼と一緒にお見舞いに行き報告をしました。

彼は気を使ってくれてテンピュールの枕を買って母親にプレゼントしてくれました。

使いごこちが良いと大変喜んでくれました。

そして潮干狩りでとったあさりですがさっそくお味噌汁にして病室へもっていきました。

生きが良かったからかとても美味しく、

母親も身は食べれませんでしたが汁を大変美味しく飲んでくれました。
















しかし体力がだんだん落ちていくのは止められませんでした。

最初はしっかりしていましたが

ついには意識がモウロウとしてきました。

入院した当初から個室をすすめていたのですが

人がいたほうが淋しくないのと、料金が高いからと私たちに気を使い

それを強く拒否していました。

しかしその日の朝、病院から電話があり個室へうつすことに。





そこで最後の時間を過ごすのです。





親戚、そして祖母と最後のお別れをするためにみなさんへ声をかけました。

祖母は母親が元気な頃、色々と世話をしてくれていました。

誰よりも祖母の健康を気遣い、体にいい食事や世話を一生懸命していた母親。





しかし今ではその高齢な祖母よりも早く命の火を消そうとしてました。





祖母は体の不調からずっとお見舞いにはこれず

最初の入院をする前以来の対面、それが最後のお見舞いとなりました。

対面した祖母は母親の名前を呼んだ後は

もう言葉にならずただ泣き崩れました。





自分の世話をしていたせいで病院へ行けなかったのでは・・・

自分がここまでさせてしまったのでは・・・






そういう気持ちもあったのではないかと思います。

見ていてとても辛かったです。






















最後の3日間、私はうちへは帰らずずっとつきっきりでいました。

ADをやっていたんで徹夜なんか全然平気だったんで寝ないでついていました。

ある夜中、父と私が病院へ泊り込みついていた時に

母親が口をゆすぎたいから体を起こしたいと言ってきました。

しばらくもうろうとしていたのに急に起き上がろうとしたんでビックリしました。





   「なんでうちに帰らないの?チャコがさびしがる・・・」





こんなモウロウとした状態でも大好きな犬を心配する母親でした。





   「メロちゃんがいるから大丈夫だよ」





そしてその後





   「ごめんね・・・」





私に対して気を使って謝ってきたんです。





   「どうしたの?母親なんだからあたりまえでしょ」





でもこんな事言われたのはじめてだったんで涙が止まりませんでした。


























そして運命の5月19日。





先生に身内の方を呼んだほうがいいと言われて

近県に住む親戚に声をかけてみんな集まってくれました。

そして一人ずつ母親に対して最後のお別れの挨拶をしていくことに・・。

眠ってしまっているはずの母親でしたが

私が握っていた手で挨拶に応えてくれてるのか握り返してくれていました。

人にとても気をつかう母親のことなので





「そんなみなさん忙しいのにきてくれて本当すいませんねぇ」





という気持ちだったのかなぁなんて思いました。

意識がないのに一生懸命自分の意思をしめそうと手をにぎりしめる母親。

もうみんな涙がとまりませんでした。





そして夕方6時すぎ。

みんなが見守る中静かに母親は旅立っていきました。















私は母親が病気で倒れるまでろくに親孝行なことを

してあげられなかったと思っています。

そしていつも近くにいた母親に甘えてばかりで

存在の大きさをちゃんと分かっていませんでした。

母親がいなかったら何もしらないし何も分からない私、

それがこういうことになってやっと気がつくなんて

本当自分を情けなく思います。

今まで自分のやりたいようにのほほんと

そして自由気ままに生きてきた事がとても悔しいです。

もっと母親に対して色々してあげたかった・・・・。

こんな当たり前のことなのに私は気がついていませんでした。

それにあんな元気だった母親がまさかこんなにも早く亡くなってしまうなんて

思ってもしませんでした。










母親が亡くなって数ヵ月後私はとても大好きだった職場を辞めました。


でも全然後悔はしていません。


母親のためにも頑張って母親の代わりを務めていきたいと思っています。


まぁもちろん母親のように完璧にとはいきません精一杯できればと思っています。










この先、何があるか分かりません。

皆さんもどうかご両親や身内、大切な人がいらっしゃるのでしたら

どうぞできるうちにできる事をしてあげてください。

私のように後悔をしないように・・。







尚、この5月19日ですが父親の誕生日でもあります。


きっと母親は家族、そしてみんなに忘れてもらわないようにこの日に


旅立っていったのかなぁなんて思っています。


おかぁ~さ~ん!絶対忘れたりなんかしないからね!!

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